not too late

音楽と本と映画と日々⑅︎◡̈︎*

本屋で待つ(佐藤友則 島田潤一郎)

山間の本屋「ウィー東城店」

経営する佐藤さん、彼の家族、そこで働く人たち、店を訪れる人たち、そして町の人たち。

時間の流れと共に様々な出来事があり、皆んなもお店も成長しながら「ゆっくり、元気になる」。

 

自分の仕事について語るのは、案外むつかしい。がむしゃらにやってきた日々を振り返り、時系列に並べ、言葉に表すなんてなかなか出来ない。

この本を読みながらそんなことを考えたのは、佐藤さんの言葉が、自分の仕事を思い出させたから。ひとりで三十数年間続け、つい先日終わりにした。

 

人を雇うということ。人に教えるということ。

相手を尊重する気持ち。待つことの大切さ。彼や彼女の笑顔を心から喜ぶこと。

職種は違うけれど私にもそんな経験があった。私もこんな思いをした。私もそう考えていた。

だけど、それを言葉に書き起こすと「武勇伝」になったり「説教」になったりしないか。自分の仕事のやり方を押し付けた文章にならないか。

 

この本は、佐藤友則さんの話九割りと、島田潤一郎さんが想像して文字にしたこと一割で出来ているそうだ。武勇伝どころか、読み終える頃にはこちらまで「ゆっくり、元気にな」ってくる。

 

ひうち棚さんの絵が、また良い。

表紙の子ども達に話しかけたくなる。

私が自分の仕事を語るのはまだまだ早いけれど、それでもいつか、少しずつ文字にしてみたいな。誰が読まなくても自己満足で終わるにしても。なんとなく、そんな気持ちになった。

 

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住み替えを終えて

住み替えは、トントン拍子に進んだ。

新しい物件を探すのも、四つほど見学して消去法とインスピレーションで一つに絞った。

 

それまで三十五年間暮らした家は、山と湖に挟まれた夕陽の美しい地にある。車が無いと何処にも行けないけれど、若い頃は何の不便も感じなかった。買い物も父母や義父母の家も、娘たちの通学も当たり前に車やバスを使った。

それが、年が増えてくると運転が少しずつ億劫になり、身体への負担も顕著になってきた。

 

だから、住み替え先の条件は歩いて用の足りる場所。これから先を考えて、スーパーと病院に困らない町に決めた。

 

決めてから引越しまで半年あった。

新しい家は面積が三分の二になるので、少しずつ少しずつ持ち物を減らしていく。着ない服、使わない布団、食器、家具…。捨てられない大切なものと、必要なものだけをダンボールに入れて持っていくことにする。初めは順調だと思っていた荷造りもだんだんごちゃごちゃしてくる。

引越しを終えてすべて収めたはずなのに、今だに爪切りや認印などは見つからない。

そしてまだまだ、他人の家に居るような余所余所しさを感じる。  

 

でも、何より嬉しいのは、リビングから空が見えること。

以前の家は三方を住宅に囲まれていたので、お日さまも星も月もあまり見えなかったのだ。

その家で三十五年間、一人で仕事もした。才も知も無い自分が、悩んで悩んで考えて考えてぐるぐる回りながら何とかやってきた。

それも引越しを機に終わりにした。

 

とりあえず、今は休養。

時計を忘れてゆっくりしよう。

日々空を見ながら、自分の体と気持ちを優先して暮らしてみよう。よく頑張った自分を労わろう。そして、少しずつ我儘を通してみようなんて、調子の良いことを考えている。

 

 

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猫の背中は綿あめの匂い(ササキアイ)

母の臍から下には、編み上げブーツのように縦に縫われた大きな傷があった。

 

子供の頃、近所に昔ながらの銭湯があり、時々母と二人で出かけた。

 

その大きな傷は「ていおうせっかい」のもの。

私の母にも私にも、臍の下に同じ傷がある。

そして、同じように、私も子どものころ母と銭湯に通っていた。

 

ササキアイさんのエッセイ『猫の背中は綿あめの匂い』#2帝王のお腹 ボスザルの背中

を、しみじみと読む。

 

そうそう。私は筆者より年上なので、銭湯も古いかもしれない。しかも、それは飲み屋街にあり、母も小料理屋を営んでいたため、湯に入るのは昼間だった。

ネオンの無い昼間に銭湯で体を洗う女性達は、たいがい出勤前のホステスさんだ。

湯煙の中、「猿山のような女の群れ」は子どもに毒になるような話を当たり前にしていた。

私が耳年増になったのも仕方ない。

 

「ボスザルみたいな婆さん」「瓶のコーヒー牛乳」「母の小柄で丸い背中」

当時の風景が有り有りと浮かんでくる。

 

私が帝王切開で出産することは、出産予定日の前に決まっていた。臨月のレントゲンで、恥骨と尾骶骨のカーブが産道を邪魔していることがわかったのだ。その時、産婦人科の先生が、

「お母さんも帝王切開だったね。この体型は遺伝だね」

と笑った。

私はそれを笑いながら母に伝え、母も同じように笑って聞いていた。

でも、その日の夜、母は一人で大泣きをしたそうだ。後に、あんたに同じ傷を作らせたくなかったと話してくれた。

 

アイさんが書いてあるように、女湯は「女同士の楽屋」。

裸になれば、誰も平等。傷も歪みもその人のもの。群れの中で身体を洗い、世間話で笑う。言葉にしなくても人生が見える。

 

そして私達は服を着て、また何度でも舞台に上がる。

 

素敵だなあ。

銭湯の良さは何十年経ても変わらない。

 

母の遺影をじっと見つめる。

あの日の夜、実は私も一人で泣いたのだ。自分で産めないのが辛くてね。

なんだか、 ありがとう。

 

 

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※エッセイは、雑貨と本gururi(ぐるり)さんの通信誌「めぐる」に掲載されています。

 

 

 

 

 

 

あなたと逢ったその日から

桑田佳祐の『やさしい夜遊び』の選曲が好き過ぎる。

日本の曲も外国の曲も、ちょうど世代が重なるのでアタマやカラダに馴染んでいるのかもしれない。世代が重なると言っても私が子どもだった頃。

母の小料理屋の有線から耳に入ってきた曲たち。一人で留守番していた四畳半の小さなテレビから流れていた歌謡曲

 

先週の選曲は日本の歌謡曲

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有名な曲も、少しマイナーなものも、聴けば思い出す。そして、父がいて母がいて、叔母がいて従兄弟がいて、隣のお姉さんや喫茶店のマスターやスナックのママさん達と大笑いしていたあの頃がよみがえる。

 

さいきん、こういう曲は「懐メロ」以前のものになったんじゃないかしら。それを歌える自分はもう完璧なおばーちゃんになったわけだ。

だから、話題にするのもちょっと恥ずかしかったりする。

でもね。たまに聴くと歌詞もメロディーもほんとに良く出来ているなあと感心する。音楽的なことは知らないけれど、大人になると改めて素晴らしい作品だとわかる。

 

こういう曲を人生の終わりに聴きながら、なんだかんだあっても良い人生だったなーなんて。

笑って逝けたら、私は幸せだな。

 

 

 

昔日の客(関口良雄)

読み終えた本は、手元に置いておくか手離すか決める。手離すものは近所の本屋に持って行く。古本と新書を扱うその店には、いつも穏やかな空気が漂っている。

 

友人から、本を買取ってくれるところはないかと訊ねられたので、その店を教えた。

数日後、彼女から電話があり

「買取り価格が安いからもう少し考えますと言って帰って来た」

とのこと。

私は今まで買取価格を気にしたことがなかったので、その言葉に少し驚いた。自分の頭の中で、本とお金がまったく重ならないのだ。

 

『昔日の客』は、東京・大森にあった古書店山王書房」の店主である故関口良雄さんが書いた随筆集。発行部数わずか1000部で入手困難になり、夏葉社によって32年ぶりに復刊された。

著者と作家やお客さん達との交流から、古書店の日々が見えてくるような興味深いお話ばかり。読んでいると、なぜか懐かしさを感じてあたたかい気持ちになる。

あー、名著と言われる所以だと納得させられる。

 

「古本屋というのは、確かに古本というものの売買を生業としているんですが、私は常々こう思っているんです。古本屋という職業は、一冊の本に込められた作家、詩人の魂を扱う仕事なんだって。」

 

私が「本とお金が重ならない」と思うのは、たぶんこれだ。もちろん、商売はお金が付き物で、関わる人達の生活の糧となる。対価が無ければ困るし遣る瀬ない。大型書店に平置きされる「売れる本」も無ければならない。

 

でも、良い本には魂がある。

安い、高い、じゃないような気がする。

難しい本も読めないし大した読書家でもないけれど、魂を扱う本屋が私は好きだ。そんな店に居ると気持ちが和む。

 

『昔日の客』がこんなに懐かしいのは、もしかすると父の書棚にあったのかもと思ったりする。実家に遺された大量の古書もすべて近所の本屋に持って行った。快く引き取ってくださり、それぞれの本に纏わる話も聞かせてもらえた。此処でまた、父の本が誰かの手に触れるとしたらとても嬉しい。

関口さんの古書店は無くなったけれど、同じような本屋が日本から消えないことを、ただ願うばかり。

 

 

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スローシャッター(田所敦嗣)

仕事って何だろう。

そんなことを考えるようになった。きっかけはコロナ禍と年齢かもしれない。

若い頃は働くのが日常で前へ前へ進んでいたけれど、ふと立ち止まることが増えたなと感じる。

 

『スローシャッター』は、水産会社に勤務して25ヶ国を訪れた著者が、仕事の中で出会った人々との交流を描いた紀行エッセイ。

アラスカ、ベトナム、チリ、アメリカ…

それぞれの国で任務のため小さな町に滞在する。そんな小さな町の名が出てくるたびグーグルマップで検索してみる。位置もわかるし、航空写真では全体の様子も見える。

家々の色、海の色、道の色。日本とはまったく違っていて、とてもおもしろい。

 

町には著者を待つ人がいて、共に仕事をしたり食事をしたり話をしたりする。どの国の人もどの町の人も、頑固だったり涙脆かったり優しかったり夢を持っていたりする。

人って、どの国に生まれても根っこは同じなのかもしれない。だから、環境を超えて通じ合えるのかな。

 

滞在日記の一つひとつに著者の人柄が見えてくる。そして、仕事をするってどういうことなのか、ヒントをもらえる。

 

お金をもらうだけじゃなく、人情だけでなく、喜ばれるだけじゃなく、苦しいだけじゃなく、そんなことじゃなく。

 

飛行機に乗れない私も、この本のおかげで世界各地に旅が出来た。地球には知らない町がこんなに沢山あって、知らない人達がこんなに沢山いて、日々笑いながら悩みながら暮らしいる。

頭ではわかっていても忘れていたなあ。

小さな箱の中でがんじがらめになっていたのかもしれない。

 

少し休もう。

休んで自分の頭と体に栄養をあげることにしよう。そうしたらきっと、今まで見えなかったものが見えてくるはず。

 

 

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暦レシピ(高山なおみ)

娘が二十歳で結婚したので料理など教えていなかった。本人も不安だったのか、私の大したことない何品かの作り方をノートに書いて持って行った。

たまに娘の家に行くと、手元にはノートではなくスマホを置いて手速く料理している。今は何のレシピだって出てくるし、簡単に美味しく作れる。

器に盛りつけた写真も、作る手順がわかる動画も見ることが出来る良い時代になった。

 

高山なおみさんの新刊『暦レシピ』は、そんなスマホアプリに相反するような文章だけの料理本

著者が料理のことを書き始めて以来十八年間分のレシピを一冊にまとめたもので、写真も箇条書きも無い。141のメニューがそれぞれ日記のように書かれている。

写真が無ければ自分で想像しながら好みの仕上がりを楽しめる。ページ上の余白と静かな文章。そんな佇まいが心地良くて、ちょっと肩の荷を下ろして料理をしようかと思わせてもらえる。

 

今日は晴れ。

おひさまは春の色だけど風は強くて冷たい。

夜はあたたかいものにしようと、本の最後にある月毎のメニューから「2月」を探す。

高山なおみさんの気取りのないごはんは、作りやすくて美味しい。

 

この本は、私が生きてきたレシピでできています。

 

著者にも読者にも、それぞれ辿ってきた人生がある。日々の食事が、そんな一日を共に喜び癒し包み込んでくれるものだといいね。

献立は決まった。

さあ、コートを羽織って食材を買いに行ってこよう。

 

 

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