not too late

音楽と本と映画と日々⑅︎◡̈︎*

Segundo Trio Esperanca (Trio Esperanca)

十年ほど前だったか、まだネットでの交流が新鮮だった頃。

ある「掲示板」で色々な方とお話しさせてもらっていた。

経営者さん、お医者さん、物理研究者さんなど、職種も年齢もバラバラな方達が、音楽、映画、スポーツ、暮らし…それぞれの日々の一部を共有する。

みなさん、ウイットある会話をあっさりとしていたので、気負いなく楽しかった。

優しい方ばかりで、映画や音楽アルバムの情報を教えてもらったり、たまにCDのコピーを送ってもらったりもした。

 

トリオ・エスペランサの『Segundo 』は、そのうちの一枚。

ブラジルで生まれた三姉妹のコーラスグループ。

このアルバムは彼女達の二作目で、アントニオ・カルロス・ジョビンの作品が中心となっている。三人の絶妙なアカペラが、なんとも言えず美しい。

 

秋の虫の声、三人の囁きのような会話から始まる。

だから、この季節が来ると必ず思い出して聴く。

気温はまだまだ高いけれど、忙しかった夏が終わりちょっとひと息つける季節にとても似合う。

そして、聴きながらいつも、このアルバムを薦めてくれた人はお元気かしらと思う。

ずいぶん前にその掲示板は無くなっても、後に結婚したという便りをいただいた。

 

ネットにも良い出逢いがある。

皆さんが元気でありますように。

 

 

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九月

なんとなく涼しい。そう感じたら今朝は気温が27度。

   夏の終わりはいつでも…

気がつくと、原由子の『恋はご多忙申し上げます』を歌っていた。

   秋が恋をせつなくすれば…

まだまだ、桑田佳祐の曲には意外に「秋」が多い。

 

九月は、自分が生まれた月。

そして、母が逝った月。

 

さいきん、ちょっとツイッターを見ている。好きな人や興味ある人。

他の人がイイネしたりリツイートしたりする呟きも流れてくる。その中に、82歳の女性のがあって好ましい。

よく見ると母と同じ年の生まれで、居酒屋を長くやってきた人。

母も小料理屋を長くやっていたので、なんとなく親近感が湧く。

話しかけてみると、すぐにお返事をくださり、

   貴女の母上様も私と同じで頑張り屋さんでしょうね、きっと!

と書いてある

 

そうなんです。頑張り屋さんでした。

 

私もあと何年生きられるかわからないけれど、もうひと花。

咲かせられるかななんて、色んな想像をしながら、また歳を一つもらおうと思う。

 

 

 

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かんがえる子ども (安野光雅)

ランドセル商戦がピークだそうだ。

GPS付きや、端末タブレット収納機能。2011年度から実施された「脱ゆとり教育」による教科書や教科の増加で、ランドセルも大型化しているらしい。

詰め込み教育から、ゆとり教育、やっぱり脱ゆとり。

なんだかなぁ…と思ってしまう。

 

『かんがえる子ども』という本を見つけた。著者の安野光雅さんは、絵本作家。

 

この頃の天気予報は、「雨になるおそれがあるので、傘を持ってお出かけになる方がいいでしょう」などと、天気予報以外のこともいいます。

サービスのつもりでいってるのだと思いますが、これは、ほんとうは自分で考えることです。

 

そうして、傘を持って出て雨が降らなかったら天気予報に文句を言ったりする。

現代は、数多の情報が溢れていて、私たちは他にもたくさん"考えなくてもすむようになっていること"がある。

誰々がそう言ってた。何々にそう書いてあった。学校でそう習った。そう答えたら大人が喜ぶ、褒めてもらえる。だから、皆がそう答えて丸くおさまる。

 

むかし、高校三年のとき、大学に行きたいと両親に頼んだら、母に

「大学に行って、何になるの?」

と聞かれたことがある。返答に困っていると、父が

「大学は、何かになるために行くんじゃない。考えるために行くんだ」

と言ってくれたのを思い出す。

 

子どもには、たくさん考えて色んな答えを見つけてほしい。

大人も日々、たくさん考えながら暮らしたい。

そうすると、豊かになるんじゃないかな。心も、からだも。

 

 

 

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日本の小さな本屋さん (和氣正幸)

前回の記事に書いた"読みたい本が見つかる小さな本屋さん"が、大きな本屋に並べられた『日本の小さな本屋さん』の中に掲載されていた。

 

和氣正幸さんというライターが、小さな本屋の魅力を伝える「BOOKSHOP LOVER」という活動の一つとして発行した本。

全国津々浦々にある、特別な唯一無二の小さな本屋さんが23店、紹介されている。

頁をパラパラとめくって、自分の好きなお店を見つけて、思わずニンマリとする。

 

それに、本屋にあるのは本だけではない。

店主が本を通して来てくれる人に伝えたいもので溢れている。

それは音楽かもしれないし、空間そのものかもしれない。

漂う匂いもそうだろう。それらすべてが合わさって、その本屋を構成している。

 

店主さんの人柄も大きな要素だし、伝えたいものを押し付けないで漂わせるのも魅力の一つ。

有名ではないけれど、意外に皆んな知っている。

中に入るのは最初に勇気がいるけれど、二度目からはワクワク感がある。

 

あなたの町にもきっとあるんじゃないかな。

ちょっと勇気を出して、ドアを開けてみてほしい。

 

 

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必要な言葉 ( 谷川俊太郎 )

四年ほど前、本屋で読みたい本が探せなくなっていた。

探せないというか、見つけられない。

何かは読みたいのに、どれを見ても買って帰ろうと思えない。

家にも、読んでいない本がいくつかあるので、それを開いてみるのだけど、どうも興味がわかない。

 

そして三年ほど前、父が施設に入居した後、実家の蔵書を買い取ってもらった近所の小さな本屋さんに、読みたい本がいくつも見つかって嬉しかった。

 

その時、四冊買って家に戻り、改めて見るとその中に小説が一冊も無い。エッセイや写真集、詩集、料理本…。

そうか、小説が読めなくなってるのかも。

 

谷川俊太郎さんの『必要な言葉』に

「このごろ、小説の言葉がぼくには不要になりつつある。」

と書かれていたのを思い出す。

「面白いけどいまこういう言葉は必要じゃないと感じてしまう。年取って人生の基本が腑に落ちてくると、細部がどうでもよくなってくるのかもしれない。」

 

人生の基本が腑に落ちたかどうかはわからないけれど、小説の世界に入り込めないのはちょっと寂しい気もする。

 

そんなうち、最近また小説が読めるようになってきた。

どういう心境の変化なのかはわからない。

谷川俊太郎さんは、今、どんな本を読んでいらっしゃるのだろう。

ちょっと気になったりしている。

 

 

 

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パンプルムース!( 江國香織 文 いわさきちひろ 絵)

好きな本屋さんで、『パンプルムース!』という素敵な本を見つけた。

いわさきちひろの絵と、江國香織の文。

 

すみれ

 

あなたにもおばあちゃんがいる?

よのなかには たくさんおばあちゃんがいるものね

 

私には、四人のおばあちゃんがいた。

父の実母と養母、母の実母と、実母が亡くなった後に嫁いできた継母。

 

わたしにもおばあちゃんがいて

かのじょはすみれのはなににていたわ

 

四人の中で一番好きなおばあちゃんは、母の継母だった人。

子供の頃、夏休みと冬休みにはずっと、そのおばあちゃんと過ごした。

 

よのなかのおばあちゃんは みんなすみれのはなににているのかしら

あなたのおばあちゃんはどう?

 

確かに、彼女はすみれの花に似ていた。

笑顔がとても優しくて、綺麗で、いつも抱きしめてくれた。

 

そんな私も、もうおばあちゃんになってしまった。

なってしまって初めて、"おばあちゃん"も一人の女性なのだとわかった。

人生を笑ったり泣いたり誰かを愛したりしてきたのだとわかったら、もしかすると、それがすみれの花に似ている所以なのかしらと思った。

 

私もいつか、すみれの花に似ていると言ってもらえたら、嬉しいな。

 

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マディソン郡の橋 (ロバート・ジェームズ・ウォラー)

何年も前にこの映画を観て、その後、原作を読んだ。

原作は映画より静かで強烈だった。

ふたりのことは事実だから、取材すればもっと色んなことが明らかになるだろう。

でも、どんなに詳細が分かってもお互いの心の中は計り知れない。

 

ただ、ちょっと感じたのは、自分の中にもフランチェスカが居るってこと。

年齢も環境もよく似ている。

 

人は毎日の営みの中で「今の生活は本当に自分が望んでいたことなのだろうか」と考えていては生きていけない。

もしあの時こうだったら…と、考えないわけではないけれど、そんなことで立ち止まらず、今置かれている立場や責任を自分の使命として、周りの人達の笑顔や思い遣りを支えとして生きている。

この二人だって、きっと出会うまではそうやって暮らしてきたのだろう。

 

「もしもロバート・キンケイドに出会わなかったら、わたしはその後ずっとこの農場にとどまれたかどうかわからない」というフランチェスカの言葉が重い。

彼女は、亡くなるまで貸金庫にキンケイドの遺品を預けていた。そして思い出は心の中に仕舞っていたのだろう。

人は皆、大切な思い出を自分の中に持っている。だから、日々の暮らしを続けられるのかもしれない。

だから、逝けるのかもしれない。

 

 

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